時代錯誤もいいところです。
「がんばれ!」→それ誰のために言っていますか?
「がんばれ!」
「ふんばれ!」
「あきらめるな!」
日常会話の中でもよく聞く言葉です。
使いどころによっては効果がありそうですが、もしそのタイミングを誤ってしまったらどうなるでしょうか?
答えはかんたんで、なんの応援にもならないどころか、ヘタしたら当事者をガケっぷちに追い込んでしまうことにもなりかねません。
スポーツでもないのに「がんばれ」「ふんばれ」「あきらめるな」という根拠の無い根性論を振りかざすのは無責任だと思うんですよね。それどころか、その無責任な応援自体が当事者のためではなく自分のために言っているようにさえ聞こえてしまいます。
それではまったく意味がありませんよね。でも意外と気軽に使われている言葉だったりするんですよ。
もしかしたら、その一言が相手にとっては重いものになっているかもしれないのに…。
根性論では人は動かない
昭和の時代には、どんなことでもとにかくがんばってやれば評価されていたかもしれません。
勉強しかり、仕事しかり、がんばっていること自体が評価されていたんですよ。
でもいまは違います。評価のプロセスそのものが変わってしまったのですから。
というよりは、元々そうであったはずなんですけどね。
どうしても昔ながらにひたすらがんばっている人が評価対象となってしまい、本当に重要なところを進めている人が対象になっていないんです。
この根性論がものすごく厄介。
日本人は昔から根性論が大好きだから、どうしてもがんばっている人を応援したくなってしまう傾向がありますから。
でも、それではもう人は動かないですよ。
だって、なにをしていいのかわかりませんもん。
勝手に期待するのではなく、どうなってほしいか具体的に提示すべし
根性論を振りかざす一番の原因は、相手に対して勝手に結果を期待しているという姿勢があると思うんですよね。
誰に対しても期待するのは勝手です。でもそれは自分の勝手であって、そのとおりになるわけではありません。
もし自分が思うようになって欲しいのであれば、どうなってほしいのかを具体的に提示して、相手がそれに対して乗ってくるかどうかが判断のすべき点でしょう。
そこをしないで、こうなってほしいなぁと思われても、まぁわかりませんよね。
僕らは魔法使いではないので、相手の気持ちなんて読み取れませんので。
そのためのコミュニケーションなんですから。